忍者ブログ
  • 2025.07
  • 1
  • 2
  • 3
  • 4
  • 5
  • 6
  • 7
  • 8
  • 9
  • 10
  • 11
  • 12
  • 13
  • 14
  • 15
  • 16
  • 17
  • 18
  • 19
  • 20
  • 21
  • 22
  • 23
  • 24
  • 25
  • 26
  • 27
  • 28
  • 29
  • 30
  • 31
  • 2025.09
[PR]
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

【2025/08/22 21:08 】 |
ディベートとは①
どうもおーさこです。

就活が終わって暇なので自己満でこんなブログを立ち上げました。

不定期更新ですがディベートに興味のある人に見てもらえたら光栄です。

ここにかかれているディベート論はあくまで私個人の見解であって、NAFAやUTYOその他の団体の意見を代表しているものではなく、また誤りが含まれている可能性も十二分にあることを了承し、その上でディベーターやジャッジの皆様に考えていただけると光栄です。


さて今回は第一回としてディベートとはということをテーマに少し書いてみたいと思います。


そもそもディベートの試合についてNAFAの規則で定められているのは、

①論題肯定側と論題否定側に分かれて戦う

②ジャッジは良心とアカデミックディベートの教育的精神にのっとってジャッジを行う

③試合は英語で行う

④反駁では立論的な議論を行ってはいけない

⑤時間についてのルール(8コン5リバ4QA10プレパ)

こんな感じでしょうか。

あとの細かいルールはジャッジのフィロソフィなりディベーターの議論により決まるという感じでしょうか。

かなり曖昧ですね。そこがまたディベートの楽しさだと思いますが。


では次にディベートとは何のためにやるのでしょうか。

ディベーター個人個人にこの質問をしたらきっとそれぞれ違う答えが返ってくるでしょう。

勝つため、友達を作るため、社会的知識を身につける、英語力をつける などなど。

しかし、そもそもディベートが何のためにできたかという起源を考えると「教育のため」という要素ははずせないでしょう。

社会的知識を身につけるという意味での教育、論理的説得力を身につけるという意味での教育、言語能力を身につけるという意味での教育。

教育と一言でいっても幅広い内容が含まれますが、教育なしにはディベートは語れないということはディベートの起源や論題作成に力を入れていることなどからもわかっていただけるのではないかと思います。


では教育がディベートにとって大事ということを前提に、教育的効果がディベートのルールを議論する際にインパクトとして評価できるのでしょうか?

私個人の答えはYESです。

というのも何かを考える際、その目的を考えることは必須であると思うから。

ディベートの目的がそもそも教育である以上、ルールを決める際にそのインパクトは無視できないというのが私の考えです。

それに対してこういう反論があるかもしれません。

「それではサッカーをする際に自分や観客が楽しめるかを考えながらみんながプレーをしているのか。」

もちろん考えている人もいれば考えていない人もいるでしょう。

しかしサッカーとディベートの決定的な違いは、ディベートではルールを選手(とジャッジ)の議論により決められるところだと思います。

もちろんディベートにおいても一度ルールが決まれば教育的効果や公平性を鑑みる必要は無いでしょう。

それゆえイラといわれるT、スプレッド、ラピッド、ニューク、フィータス、ディスエイブル、ライクリーケースなどといった教育的効果や公平性に多くの人が疑問を持つ話題もルールが許容するならディベーターは教育的効果や公平性を気にせず躊躇なく出してもよいしそれは評価されるでしょう。

ただそのような議論を認めていいかどうか、この点に関してディベートセオリーの議論としてディベーターが争うことが可能であることにディベートの特異性、そして面白さがあるように思われます。


公平性も同じでしょう。

ゲームであるからには両者のある程度の均衡は必要であると思います。(50vs50である必要は無いが)

そしてフェアであればフェアであるほど優れたゲームといえるし、試合も面白くなるでしょう。

だからといって当たり前ですが一度決められた枠組みの中では公平性を考えて試合をする必要は無いでしょう。


ディベートセオリーのインパクトを複雑にしているのはディベートセオリーとネット議論とでインパクトが変わってしまっていることでしょう。

つまりサッカーのような普通のゲームでは内容をルールと「ネット」の二層に分類できるのに対して
(※ここではネットをルール内での対戦内容のような意味に捉えています)

ディベートにおいては大会ルールと試合内ルール(ディベートセオリー)とネットの三つの層に分類できることにディベートの複雑性、そして面白さが内在しているのだと思います。

しかしこのように三層に分かれていることは競技としては特異であっても、唯一無二の特異性ではありません。

たとえば学校のクラスで議決をとる際を考えてみてください。

学級委員や議決の時間、議決のテーマなどは予め決まっているでしょう。(どこまで予め決まっているかは学校によって違うかもしれませんが)

しかし議決の方法(多数決にするか全会一致制にするか)など細かいルールは参加者で決めるところも多いでしょう。

このように何かを議論する際に絶対的に変えられないルール、話し合いで決めるルール、話し合いの内容という三元的構造を用いて行われることは多々あると思います。

ディベートが議論をするゲームであることを考えればむしろディベートが三元的なものであることは自然なのかもしれませんね。


ただし、ディベートを二元的にルールとネットの二つに分類して試合中の議論を全てネットと分類すれば当然に公平性や教育性は考える必要がなくなります。

しかし、それにはNAFAルールや慣習、フィロソフィだけでルールを決めておく必要があります。

個人的にはディベートが肯定側と否定側に分かれて行うという曖昧なルールのみしか規定されていないことを考えるとなかなか難しいとは思いますが。。。


皆様も今一度ディベートとは何か?ということについてもう一度考えていただけると幸いです。

とりあえず今回はここまでで。
PR
【2010/06/05 20:12 】 | ディベート論 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
<<ディベートとは② | ホーム |
有り難いご意見
貴重なご意見の投稿














虎カムバック
トラックバックURL

<<前ページ | ホーム |