忍者ブログ
  • 2025.07
  • 1
  • 2
  • 3
  • 4
  • 5
  • 6
  • 7
  • 8
  • 9
  • 10
  • 11
  • 12
  • 13
  • 14
  • 15
  • 16
  • 17
  • 18
  • 19
  • 20
  • 21
  • 22
  • 23
  • 24
  • 25
  • 26
  • 27
  • 28
  • 29
  • 30
  • 31
  • 2025.09
[PR]
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

【2025/08/22 20:18 】 |
フィロソフィー
ダウンロード(doc)

とてもお久しぶりです。廃墟寸前だけど新たな使い道を発見したので復活しましたw


今島本さんとアメリカに日米交歓ディベートの日本代表としてきています。

アメリカのNDTのディベーターとたくさん話して、フィロソフィーについて色々と考えることがあったり、

またアメリカではフィロソフィーだけでなく議論やエビデンスまで全てオープンなので日本も見習ったら面白いと思っています。

しかし口だけではあれなので、自分たちから行動を起こそうと思って今回は俺のフィロソフィーをアップしました。

(島本先生はもう少ししたらアップします)

批判や評価、どんどんウェルカム。

またジャッジで自分のフィロソフィーを紹介してもいいという人は是非是非連絡してください。

どんどんアップしていきたいと思います。

PR
【2011/02/25 13:10 】 | ディベート論 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
証明責任①
どうも。

前回は論題解釈のスタンダードについてお話しすると述べたので日記を途中まで書きましたが、それ以前に話すことがあると思い今回は証明責任ついて考察したいと思います。

ネットのパーシャルPMAの話もそうだし、トピカリティーの証明責任もそうですが、多くのジャッジがなんとなくや慣習に流されているのではないかと思い今回の日記を書きました。

第一回ということでトピカリティの証明責任について書きます。

今回の考察は今はやっているshould=unlikelyをとっていいかという議論やリーズナビリティにおいて前提となる議論なので皆さんも考えてみてください。


トピカリティの証明責任が肯定側にあるか否定側にあるかという議論がよくあります。

しかしこれは肯定側にしかありえないのです。なぜならトピカルでない議論は一般的にボーターになりえないからです(今回は後に述べるクリティックのような論題外のボーターが出てないものと仮定します)。

ただし証明責任の程度には差異があるでしょう。

私たちジャッジはある程度の英語力を備えており、常識的に解釈が合理的と判断されれば反対側(主に否定側のトピカリティ)の議論を切ります(これを否定側のトピカリティの証明責任とでも呼んでいるのでしょう)

逆にタブラーなジャッジは否定側の反論を素直に受け入れ、試合中の肯定側の証明だけでは合理性の証明に不十分であれば解釈を非合理的と判断するでしょう(このとき肯定側の証明責任が重いと呼んでいるみたいですね)


しかし両者に一つ共通することがあることに注意していただきたい。

それはジャッジが、肯定側の解釈の合理性が試合中の議論および一般的解釈(そしてジャッジの良識)に基づいて確からしいと判断できるという点です。

この点が私のいう肯定側の証明責任です。

何がいいたいかというと「よくわからないけどトピカルかもしれない議論」では肯定側の勝ちには繋がらないということです。

なぜなら合理的解釈を肯定できていれば肯定の勝ちと判断できますが、もしそもそも解釈が非合理的なら肯定は勝てません。


なんでこんなことをいうかというと、これも「ディベートについて②」で述べたように可能的真と解釈の合理性という二つのレベルの違う話をジャッジやディベーターがごっちゃに考えていると思うからです。

ある一つの合理的解釈に基づいて論題を肯定すれば論題を肯定されるというのが可能的真。

そういう意味では「論題のリスクを肯定すれば論題が肯定される」といえてしまうかもしれません。

しかし「解釈が合理的である"リスク(可能性)"」で論題が肯定されるというのはまた違った議論です。

そして合理性の"リスク"で十分というロジックはどこにもあるとは思えません。

実がこれがshould=unlikelyという議論やaffirm=prove something is correctが関西より関東において意外とスムーズに受け入れられて立ってしまう原因になっているのではないかと私は考えています。

どこまで示せば可能性ではなくて合理的とジャッジが判断するかわからないという反論が考えられるでしょう。

しかし一つ目に、ネットの議論においてもどこまで示せばジャッジがわかるかというラインがあるのでこれはそもそもトピカリティだけの議論ではありません。

ジャッジが一般的良識を判断することに関しては、ジャッジのラインがわからないからどうにかしろという議論はそもそも立ちそうにありません。

そして二つ目に、この反論が許されるのはタブラーのジャッジ、またはタブラーをよしとするディベーターですが、もし仮に上記のような議論の提示時にいったん議論を認めたとしても否定側の簡単な反論、たとえば「本当にcorrectにgrammatical correctという概念が含まれているかわからない」というような反論もスムーズに受け入れるべきです。

タブラーというのは議論提示の障壁が低いということですが、それは反面として反論の障壁もひくいということにしなければ一貫性が保てません。

そしてこの二つの議論がぶつかったときには結局ジャッジがどっちがより説得的か判断せざるを得ません。

そのときにあなたが本当に合理的であるという確証のない議論を評価できるでしょうか?

ネットにおいてクリティックといわれているジャッジはもちろん解釈においても一貫性を保つべきだと思ます。

それなら肯定側が上記のように解釈したときに自分の良識と照らし合わせて解釈の合理性を判断しなければいけません。

そのときにあなたが本当に合理的であるという確証のない議論を評価できるでしょうか?


第二回の内容とかぶっていることもあるため今回は問題提起ばかりで詳しい解説は載せていませんが大体私の言いたいことは理解していただけたでしょうか。


最後に四方山話として今回の関東と関西のトピカリティの評価の違いがわかる論題の話をして今回の日記をしめさせていただきます。

時はさかのぼり2008年度前期。

論題はカジノ合法化「The Japanese government should authorize the system of casino gambling.」

関西ではsystem of casino gamnblingってどんなもんかよくわからないから二つ目のtheが使われるのは非合理的というトピカリティが猛威を振るっていました。

一方関東でのTでのよくある返し・・・

「the can be used before "of", hence our interpretation is reasonable」

このミートが大活躍でしたとさ。めでたしめでたし。

・・・

おしまい。
【2010/06/21 18:46 】 | ディベート論 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
CPの競合性について①
お久しぶりです。
さりげに読者がいることがわかったので再度更新することとしますw

リーズナビリティについて、スタンダードについて、カウンターワラントについて、クリティックについて、シフトをしないジャッジについてなどのテーマも考えましたがSEEDでみた試合でこのテーマについて気になったので今回はこのテーマについて書かせてもらいます。


TCPのシフトなどで否定側のプランにおいては競合性、トピカリティー、ソルベンシーの3つのバードンがあるのに対して肯定側のプランはトピカリティーとソルベンシーの2つのバードンのみでよいから不公平であるという議論がある。

だからトピカルなCPもとれというのがシフトの概要だが、この議論を認めたら逆にノントピカルでかつ競合性がある(しかしソルベンシーがない)CPもネガのボーターなのかと突っ込みたくなるw

考えてみてほしい。ノントピカルでかつ競合性の証明のある(しかしソルベンシーがない)CPとはなんだろうか?

というより競合性とは何なのか、そしてそれは否定側のバードンなのかということを今日は考えたいと思う。

これは私の疑問なので明確な答えを持っている人は教えて頂きたいw


さてそもそも競合性とはなんなのだろうか?

なんとなくで競合性を語るディベーター、そしてなんとなくで否定側の証明責任であるということをフィロソフィに明示しているジャッジがいる気がするが気のせいだろうか。

私が考える競合性とは肯定側と否定側双方の政策を同時にとった場合どうなるかということであると思っている。

大きく二つにわけると①同時に採択出来ない、②採択出来るの二つの論点が同時採択において考えられる。


それではこれらは否定側の証明責任なのだろうか?

①両方とれないことが否定側の証明責任なのか?

私はそうは思わない。普段のディベートにおいても同時採択案を肯定側が出さなければCPにボートするジャッジが多いのでは?


②同時に採択できるときの証明責任について
これはそもそもソルベンシーの問題であってもはや競合性単独の問題ではない。

つまり同時採択という肯定側のポリシーに対して否定側がデザイアビリティーを否定するのは当たり前であって競合性うんぬんの問題ではないのである。

つまり何がいいたいかというと競合性とソルベンシーは別概念(別バードン)として考えること自体がおかしいのではないかということ。


ここでさっきの議論に戻ろう。

ノントピカルでかつ競合性がある(しかしソルベンシーがない)CPとは何だろうか?

強いて言うならソルベンシーの証明がない肯定側と競合するプランかな?

しかし①であげたようにこの場合の競合性の証明責任は否定側にはない。

(例えあったとしても否定側が肯定側のプランと同時採択できない案を出せば勝てるのだろうか?w)


このように証明責任としての競合性という概念は浮いてしまっているように思える。

端的に①ノントピカリティーと②ソルベンシーの二つにまとめてしまってもいいのではないか。

なぜなら結局肯定側のプランも否定側のプランもADが必要であるという点でソルベンシーの証明が必要である。

一方でどちらも反対側のプランに対してネットベネフィットで上回らないといけない(否定側においては同等以上の証明で十分だが)。

これを競合性と呼ぶならCPを上回る義務を持つ肯定側にも当然に競合性の証明責任があるといえるのではないか。

ただ単にそれだけではないのか?

競合性は否定側の証明責任という考えはどこからきているのかを知りたい。


今回は自分の疑問をつらつらと述べる形になってしまったが競合性について詳しい人は教えてくださいw

次回はトピカリティーのスタンダード(特に文法と文脈)について考察を述べたいと思う。

今回はここら辺で。
【2010/06/15 10:12 】 | ディベート論 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
ディベートとは②
続けて更新するとなんだか暇そうに思われてしまいそうですが、そんなこともないです。

どうもおーさこです。

今回は第二回ディベートとは?について自分なりの考察を少し書いてみます。


前回はディベートのルールを決める際のインパクトとして教育性と公平性を挙げました。

これに前回挙げたNAFAルールに基づくロジック(論理性)の3つがシフトの際によく出されるインパクトですよね。

今回はその論理性について少し検討してみたいと思います。


肯定側から新しいパラダイムが出される際によく「論題をAffirmすれば肯定側の勝ちだからどのような方法でも肯定すればいいのだ」という議論を見受けます。

しかし果たしてそれは本当にロジカルに正しいのでしょうか?

ディベートとは「Resolutionの下で肯定側と否定側に分かれて戦う」ものではあるけれども肯定側がどのような方法でもAffirmすれば勝ちになるというロジックは実はどこにも存在しないのです。

ここで問題を複雑にしているのは「可能的真」と「絶対的真」という概念だと思います。

アカデミックディベートは社会的な事象について議論するものであるため多くのジャッジはイニシャルで肯定側=可能的真の証明、否定側=絶対的偽の証明を求めていると思います。

なぜなら社会的な事象を絶対的に真であることを証明するのはとても証明が重たいからです。

一方絶対的真を肯定側に求めるジャッジにおいてはカウンターワラントが立ちうるでしょう。

否定側からカウンターワラントの提示がなされない限りにおいて肯定側の証明以外のトピカルな事象も全て真と仮定すれば肯定=絶対的真という証明の下でも戦えなくは無いのかなとは思います。

このように肯定という言葉には様々な意味が考えられますが、そもそも肯定=可能的真、なのか、肯定=絶対的真なのかという概念を肯定側が単独で決める権限を有しているのでしょうか?私にはそうは思えません。


さらに問題を複雑にしているのはAffirm=State (gramatically) correctという概念の存在かもしれません。

私自身は肯定にもAffirmにも文法的に正しければ使われるという用法があるとは思いませんが、多くのジャッジが現在ではとるようなのでそのような用法が認められると100歩譲って仮定してみましょう。

しかしそのような用法があったとして、肯定側にAffirmが文法的真なのか可能的真なのか(文が文法的には正しいことを前提にある一つの意味で正しければよい(※一部のジャッジにおいては主要な意味において真であることを示せばよい))、絶対的真なのか(文が文法的には正しいことを前提にどのような場合においても文が真になることを証明しなければいけない)を任意に決めれる論理性はどこにも認められないのです。

可能的真は文法的真と並列の関係でしかなく、affirmを可能的に証明すればいいというロジックはどこにもディベートのルールには内在していないということには注意する必要があるでしょう。

つまりaffirmの意味の解釈の選択権とaffirm=可能的真をごちゃごちゃに考えてしまった結果が現在のLDだと思います。

(ジャッジがどんなAffirmationでもいいから任意のAffirmationが肯定側よりなされれば絶対的に肯定側に投票するということを明記されていれば肯定側がaffirmの解釈権を持つという議論は立つが、そのように明記しているジャッジは可能的真と肯定の概念の定義という二つのレベルの違う事象を錯乱していないかを考え直していただけると幸いです)

ディベートのルールが肯定側と否定側とジャッジの三者で話し合われる限りにおいてはAffirmationも三者で話し合うのが筋だと思いますが皆様はどう思われますか?


ランゲージディベート、カウンターワラントについて考える際に少しでも参考になれば幸いです。

では今回はここらへんで。
【2010/06/06 12:04 】 | ディベート論 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
ディベートとは①
どうもおーさこです。

就活が終わって暇なので自己満でこんなブログを立ち上げました。

不定期更新ですがディベートに興味のある人に見てもらえたら光栄です。

ここにかかれているディベート論はあくまで私個人の見解であって、NAFAやUTYOその他の団体の意見を代表しているものではなく、また誤りが含まれている可能性も十二分にあることを了承し、その上でディベーターやジャッジの皆様に考えていただけると光栄です。


さて今回は第一回としてディベートとはということをテーマに少し書いてみたいと思います。


そもそもディベートの試合についてNAFAの規則で定められているのは、

①論題肯定側と論題否定側に分かれて戦う

②ジャッジは良心とアカデミックディベートの教育的精神にのっとってジャッジを行う

③試合は英語で行う

④反駁では立論的な議論を行ってはいけない

⑤時間についてのルール(8コン5リバ4QA10プレパ)

こんな感じでしょうか。

あとの細かいルールはジャッジのフィロソフィなりディベーターの議論により決まるという感じでしょうか。

かなり曖昧ですね。そこがまたディベートの楽しさだと思いますが。


では次にディベートとは何のためにやるのでしょうか。

ディベーター個人個人にこの質問をしたらきっとそれぞれ違う答えが返ってくるでしょう。

勝つため、友達を作るため、社会的知識を身につける、英語力をつける などなど。

しかし、そもそもディベートが何のためにできたかという起源を考えると「教育のため」という要素ははずせないでしょう。

社会的知識を身につけるという意味での教育、論理的説得力を身につけるという意味での教育、言語能力を身につけるという意味での教育。

教育と一言でいっても幅広い内容が含まれますが、教育なしにはディベートは語れないということはディベートの起源や論題作成に力を入れていることなどからもわかっていただけるのではないかと思います。


では教育がディベートにとって大事ということを前提に、教育的効果がディベートのルールを議論する際にインパクトとして評価できるのでしょうか?

私個人の答えはYESです。

というのも何かを考える際、その目的を考えることは必須であると思うから。

ディベートの目的がそもそも教育である以上、ルールを決める際にそのインパクトは無視できないというのが私の考えです。

それに対してこういう反論があるかもしれません。

「それではサッカーをする際に自分や観客が楽しめるかを考えながらみんながプレーをしているのか。」

もちろん考えている人もいれば考えていない人もいるでしょう。

しかしサッカーとディベートの決定的な違いは、ディベートではルールを選手(とジャッジ)の議論により決められるところだと思います。

もちろんディベートにおいても一度ルールが決まれば教育的効果や公平性を鑑みる必要は無いでしょう。

それゆえイラといわれるT、スプレッド、ラピッド、ニューク、フィータス、ディスエイブル、ライクリーケースなどといった教育的効果や公平性に多くの人が疑問を持つ話題もルールが許容するならディベーターは教育的効果や公平性を気にせず躊躇なく出してもよいしそれは評価されるでしょう。

ただそのような議論を認めていいかどうか、この点に関してディベートセオリーの議論としてディベーターが争うことが可能であることにディベートの特異性、そして面白さがあるように思われます。


公平性も同じでしょう。

ゲームであるからには両者のある程度の均衡は必要であると思います。(50vs50である必要は無いが)

そしてフェアであればフェアであるほど優れたゲームといえるし、試合も面白くなるでしょう。

だからといって当たり前ですが一度決められた枠組みの中では公平性を考えて試合をする必要は無いでしょう。


ディベートセオリーのインパクトを複雑にしているのはディベートセオリーとネット議論とでインパクトが変わってしまっていることでしょう。

つまりサッカーのような普通のゲームでは内容をルールと「ネット」の二層に分類できるのに対して
(※ここではネットをルール内での対戦内容のような意味に捉えています)

ディベートにおいては大会ルールと試合内ルール(ディベートセオリー)とネットの三つの層に分類できることにディベートの複雑性、そして面白さが内在しているのだと思います。

しかしこのように三層に分かれていることは競技としては特異であっても、唯一無二の特異性ではありません。

たとえば学校のクラスで議決をとる際を考えてみてください。

学級委員や議決の時間、議決のテーマなどは予め決まっているでしょう。(どこまで予め決まっているかは学校によって違うかもしれませんが)

しかし議決の方法(多数決にするか全会一致制にするか)など細かいルールは参加者で決めるところも多いでしょう。

このように何かを議論する際に絶対的に変えられないルール、話し合いで決めるルール、話し合いの内容という三元的構造を用いて行われることは多々あると思います。

ディベートが議論をするゲームであることを考えればむしろディベートが三元的なものであることは自然なのかもしれませんね。


ただし、ディベートを二元的にルールとネットの二つに分類して試合中の議論を全てネットと分類すれば当然に公平性や教育性は考える必要がなくなります。

しかし、それにはNAFAルールや慣習、フィロソフィだけでルールを決めておく必要があります。

個人的にはディベートが肯定側と否定側に分かれて行うという曖昧なルールのみしか規定されていないことを考えるとなかなか難しいとは思いますが。。。


皆様も今一度ディベートとは何か?ということについてもう一度考えていただけると幸いです。

とりあえず今回はここまでで。
【2010/06/05 20:12 】 | ディベート論 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
| ホーム |